ジョン金谷鮮治とは

JOHN KANAYA

JOHN KANAYA

1873 明治6年 カナヤカテージイン 日光で開業
創業者 金谷善一郎
1910 明治43年 金谷鮮治 日光で生まれる
1931 昭和6年 鬼怒川温泉ホテル開業
1953 昭和28年 鬼怒川温泉ホテル本店より独立
初代社長に金谷鮮治 就任
1960 昭和35年 ホテルニュージャパン開業
1971 昭和46年 ジョンカナヤ麻布開業
1977 昭和52年
11月30日
金谷鮮治 没
1978 昭和53年 鬼怒川金谷ホテル開業

時代の先を歩んだ破天荒なダンディズム

いつも真っ白なリンカーンコンチネンタルで店にやってくるジョン金谷鮮治。
その姿は、大使館の多い麻布、六本木界隈でも際立って目立っており、高度成長期に湧く東京のこの街でも、抜きん出てダンディで、ハンサムな紳士として異彩を放っていました。

PROFILE

明治43年8月22日金谷ホテル創業者、金谷善一郎の長女・金谷多満と婿養子・正生の長男として日光で誕生。
昭和9年立教大学卒業後、箱根富士屋ホテル、帝国ホテルで修業した後、金谷ホテル・日光物産商会取締役を経て、昭和28年日光金谷ホテルの支店として昭和6年に開業し、父・正生が初代館長に就任していた鬼怒川温泉ホテルを本店より独立し、鬼怒川温泉ホテル株式会社を設立、社長に就任。
昭和32年5月に火災のためホテルを消失するが翌年再建し、鬼怒川温泉のシンボルとなるホテルであり、なおかつ日本を代表する観光ホテルに育て上げた。
昭和51年5月より会長。
昭和52年11月、翌年オープンする鬼怒川金谷ホテル開業準備中に死去。

鬼怒川温泉ホテルのオーナーとして鬼怒川・川治温泉地域の観光近代化への発展に寄与し、大きな足跡を残しただけではなく、数多くの日本の観光関連企業の役員として、日本のホテル・旅館の近代化、高級化へのキーマンとして活躍した。
昭和35年のホテル・ニュージャパン設立に際しては、同ホテル常務としてホテル業界では初めて和風スタイルの導入を提言。

北炭観光開発株式会社(後の三井観光開発株式会社)副社長として札幌グランドホテル、札幌パークホテルなどの運営にも携わったほか、東京レストラン経営株式会社、日本ハイウェーサービス株式会社、株式会社白良荘、日光開発株式会社などの経営に参画。
また、日本旅行協定旅館連盟会長、日本ホテル協会理事長、内閣観光政策審議会専門委員など、日本における高度成長期の観光事業の要職に就き、日本を代表するホテルマンとして業界に名声を博した。

プライベートでも立教大学在学中からアイスホッケー部の金谷三兄弟の長兄として活躍し、その”破天荒”な生き方は、後世さまざまな伝説を残した。

若い頃より世界中の観光地、ホテルをリサーチし、その先見性と博識ぶりとともに、ダンディで、ハンサムな紳士として銀座、六本木では異彩を放った。
昭和46年4月には東京六本木に10階建ての本社ビルを竣工。
11月には同本社ビル2階に自らのグルマンとしての経験と知識を結集し、"日本料理と西洋料理の融合"を目指した「西洋膳所ジョンカナヤ麻布」をオープン。
料理の鉄人の”ムッシュ”坂井宏行が初代シェフを務めた伝説のレストランとして知られ、数々の著名な方々に愛されたお店としても有名に。

白いリンカーンと葉巻をトレードマークに、孫との初面会時に「How do you do, nice to meets you」と英語で挨拶した、銀座を歩くと各辻の花売りが直立不動で挨拶した、ピカソの絵を値段も聞かず購入した、海外旅行の土産としてダイヤモンドで社員章を作り役員に配った、ローマのレストラン「アントニオ」では行くと必ず特別な貴族向けのカトラリーがテーブルセッティングされたなど、さまざまな豪快な逸話を残した。
常磐ハワイアンセンターのコンセプトも同氏の発案とも言われ、その次代を見越したアイデアセンスと幅広い人脈は、高度成長期の良き昭和の日本を代表した粋人。